PARCO劇場まで
PARCO劇場ホワイエ
『チョコレートドーナツ』第一幕
『チョコレートドーナツ』第二幕
雄弁なルディ、その光
ふたりのポール
マルコについて
マルコの母親、マリアンナについて
『I Shall Be Released』で謳われる「自由」とは
『チョコレートドーナツ』の時代背景
「なんて救いがない話なんだ」
終わりに
リンク
PARCO劇場まで
朝、ホテルを出てコンビニエンスストアの前のバス停まで行ってから気づきました。
ハンカチ忘れた。
余裕をもって出てきていたので坂を下りてUターン。
天気は良好で、爽やかな風が吹く朝、散歩途中のプードルが、「褒めて」と言わんばかりに人が通りかかるたび背筋を伸ばしてぴたっと止まる姿に和みながら、いよいよチョコレートドーナツ東京千穐楽当日です。
メイクはアトリエはるか・渋谷マークシティイーストモール店にお願いしました。
PARCO劇場にドレスコードがないとはいえ、特別なステージなので気合はいれたいという要望(この日のために10年ぶりに眼科でコンタクトレンズの処方箋をもらった)+服やアクセサリには拘りたい+朝メイクにコストと時間を取られるのをさけたいというニーズにより、まるっと外注。
題材に合わせて思い切りラメを使ったメイクは華やかで明るくていい感じです。
10時30分に親友Sと落ち合う。
前回会ったのはコロナ禍よりはるか前なので、本っ当に久しぶり。
神宮球場でのテゴマスと近藤真彦のコンサートに誘ってくれたこともあるSは、東京在住ながら渋谷はめったに来ないとか。最後に来たのは坂本昌行主演『TOPHAT』を観劇した時、とのことなので、本当に全然足が向かないようです。
10月末にもかかわらず渋谷は暑くて、曇り空でも長袖を着ていられないくらい。
道玄坂を延々登るあいだ、お互い慣れないロングスカートで躓いてました。
ドトールに入って、ランチの予約をした時間までをつぶします。
予約したのはトムボーイカフェ神泉
力が出た。お腹が空いていたので、Sが残したライスももらってしまった……。
お互いの近況を語りつつ、子どもの権利条約についてやら色々話し込み、12時になる前にPARCOへ向かいます。
前日に下見して時計に座標を記録していたので迷わずさくさくと進みます。
PARCO劇場ホワイエ
早めに向かっているのには理由がありまして。
PARCO劇場のホワイエ内のカフェには『チョコレートドーナツ』上演期間カフェメニューがあるのです。
当日のチケットを持っている人のみが入れる&開幕前と幕間のみ営業というタイトなお店なので、時間との戦いのです。
早めに入場できたので、ノンアルコールの『カーテンコール』を注文しました。
カシスの酸味とミントの爽やかさが鼻に抜ける、爽やかなテイストでした。美味しかった。
旧Twitterで知り合った四季さんと挨拶を交わし、プレゼントをいただいて、いよいよ劇場に入ります。
今回の席はB列17・18席。前から二列目のど真ん中です。
Sはこんな良席でいいのかと見上げた首の心配をしていましたが、私もステージとの近さに動揺してました。
渋谷での観劇、私は2010年シアターコクーンでのミシマダブル以来です。
席について、高鳴る胸を落ちつけて。
『チョコレートドーナツ』東京最終公演の幕が上がります。
チョコレートドーナツ | PARCO STAGE -パルコステージ- 2023年再演公式HP
『チョコレートドーナツ』第一幕
第一幕冒頭のルディの登場シーン、踊り子としてショーパブのステージの階段をすごいスリットの入ったゴールドのドレスにふわふわのストールを広げた両腕に巻き付けて8㎝のヒールを履いて降りてくるあの場面、見間違いじゃなかったら東山さんは階段を踏み外してました。
けど体勢は崩れず、その後も艶然とした笑みを浮かべて何事もなかったように悠然と足を運び、演技を続けました。
本当にあまりにも何事もなかったかのように進行したので、観劇のあと四季さんに確認しなければ私も見間違いとして処理したと思います。
彼が舞台役者であることのなによりの証明です。
若い時分、突発的なアクシデントにことさらに弱い己を認めた上で克服するために続けた入念な下準備と鍛錬が、役者東山紀之を支えています。
一晩のうちに運命の人ポールとベッドインし、なのに隣の部屋にひとり取り残されたマルコ(丹下開登)の処遇についての意見の相違でポールを追い出し、そしてそんなに必死に守ろうとしたマルコさえ警察に連れていかれてしまったルディ。
それでも日は巡り次の日にはいつも通り出勤し、ステージへ立つためのリハーサルをします。
ルディは『バッドガール』に合わせて婦警仕様のボンテージファッションに身を包み短鞭を振るっています。
傲慢な笑みを浮かべてサディスティックに挑発するパフォーマンスするクイーンを演じたっていいはずなのに、さすがに表情が冴えません。
ポールが訪れてルディはステージを下り、衣装を脱ぎバスローブへと着替えます。
この、観客に背を向けて武装を解くシーンが非常に象徴的で。
ルディが一番無防備な姿を観客に晒しているのです。
彼は華やかなショウビズという別世界の住人ではなく、日当で糊口を凌ぐ、我々と同じ生活者なのだと強く伝えるシーン。
これまでの大家に家賃の滞納を詰められるシーンや、アパートの壁が薄く隣人の生活音に苛まれているシーン、部屋に満足な食糧がないのが察せられるシーンなどの積み重ねが活きて反映されています。
昨晩とは逆に、ひょいっとピアノの上に乗ったルディが自分の身の上をポールに歌って語ります。
ピアノの上、ローブ一枚纏っただけの肢体で次々とポーズを決めてくるくると色々な表情を魅せるルディは実にセクシーで美人極まりないのですが(初演の際、大開脚を真正面で拝見してくらくらしてました)、全力でポールにだけアピールしているんですよね。センターの踊り子が舞台を下りて、たった一人の想い人を懸命に口説いているのが、けなげで可愛くってたまりません。「私は安くも軽くもないの」という通り、ルディって本当に乙女。
ポールに「ぼくの家に来ないか」と提案されたルディはてれってれになっています。恋人からのお誘いですもの、当然です。けれど二人の関係は従兄弟と偽る必要があります。
マルコの暫定的監護権を得るため――つまり公的にマルコを養育する権利を勝ち取るために二人は「適切な関係」でなければならないのです。
ルディとポールはともにマルコの母親がいる留置所を訪れます。
面会したルディは彼女の身の上話に耳を傾けます。
「大変だったのね」
母親は最後まで二人と目を合わせようとはしませんでしたが、その一言でマルコの暫定的監護権の譲渡に同意する書類にサインします。
ルディにとって彼女は迷惑な隣人であり、マルコを育児放棄した許せない保護者だったはずです。でも、ルディは心からの同情を彼女に向けています。
裏表がなく、隣人に手を差し伸べずにはいられない正直者。そこに保守や保身、他人の目なんて入り込む余地はありません。ポールが強く惹かれたルディの美点です。
マルコを迎えたふたりは、用意した子供部屋にマルコを案内します。
ポールが夕食を用意する間に「絵本を読んで」とねだられたルディは、即興で作った物語を歌い語ります。
マルコという少年が主人公の、ハッピーエンドのおとぎ話。
このシーンは本当に何度見ても素晴らしい。とてもいい。マルコとルディの間に通うものが確かに見える。二人は親子です。
ポールと夫婦のように、マルコと親子のように充実した幸せな日々を送るルディ。一見なんの不足もない、満ち足りた生活です。
マルコと一緒にいるために夜の仕事を辞める決意をし、歌手という夢へ再チャレンジも始めます。
でも、それはかりそめで。ポールとの関係を従兄弟と偽っているからこそ成り立つ砂上の生活です。事実ポールは職場で父親の既知である上司に再婚を勧められ、相手をあてがわれそうになっています。
ルディの不満はハロウィンの晩に爆発します。
「私はポールの妻です。――これは差別よ!」
ポールの家を出たルディは、以前のアパートでマルコとふたりで暮らし始めます。
「ポールのお家には戻れないの?」
塞いだマルコが訊きます。
二人でここで暮らしていくのだと強がるルディですが、本当はマルコと同じ気持ちです。ポールと一緒にいたい。けれど、どうしても譲れないものがある。
役人が部屋からマルコを連れて行ってしまいます。悲観に暮れるルディのもとに、なんとポールが訪れます。
「仕事を辞めてきた」
ルディの潔さに影響されて、ポールは思い出したのです。社会を変えたいという志を。
『チョコレートドーナツ』第二幕
今度は同性愛者のカップルとしてマルコの永久的監護権を公に求めることになったルディとポールは保護司の元を訪れます。
ミルズ家庭局長の質問に答えるルディは、どうしても茶化しや混ぜっ返しをしてしまいます。ポールが公に自分を恋人だとカムアウトしたことで、嬉しくて浮かれているのです。
「ぼくは仕事を辞めたんだよ!?」
今までの人生を投げうったポールの立場と覚悟を理解したルディは、人が変わったように真摯な態度に改めます。
覚悟をきめて裁判に挑むルディとポールの前に、ランバート弁護士が立ちはだかります。
ランバートはポールの大学時代のラグビー部の先輩であり、ポールと自死した先輩との間の出来事も知っているそぶりです。
このランバートは言葉巧みに、証言台に立ったキャリーやルディからほとんど誘導に近い証言を引き出し、ことを有利に運んでいきます。
へとへとに疲れたルディとポールは帰宅して服を脱ぎ、同衾します。
全然恋人らしい時間が取れないと零すルディの両頬にポールは手を寄せて、彼を振り向かせてキスをします。
二人はさらに情熱的なキスを交わし、お互いを確かめ合います。
恋人との満ち足りた時間を過ごした夜、ルディは夢を見ます。マルコを失う夢。
いてもたってもいられなくなったルディは電話越しにマルコと約束します。
「来週、必ず迎えに行くからね!」
ポールが凄腕の弁護士を迎えて挑んだ日、裁判所にはポールの上司であるウィルソンが現れます。彼と組んで根回ししたランバート弁護士はマルコの母親を証言台に召喚したのです。
「実の親には勝てない」
傍聴席で見ていたマイヤーソン判事(高畑淳子)がいう通りの結果です。納得できないルディに、彼女は更に言葉をかけます。
「また法廷で会いましょう」
ルディはひとり、古巣であるショーパブに足を向けます。
エミリオ(エミ・エレノオーラ)のピアノに促されて胸の内を歌うルディ。
「愛なんてどこにもないの」
やさぐれた役を演じる東山紀之って頽廃的な耽美を求められることが多くて(役の性別問わず。『さらば、わが愛 覇王別姫』が代表)、それはそれで大好きなんですが、こんな生活者の悲痛なままならなさで魅せる役者になったのかと驚きます。
初演のときも感じたように、新境地です。
抑え込んでいたありったけの胸の内を吐き出したルディのもとに、ポールからの便りが届きます。
ポールは上告の準備をしていました。彼は諦めていなかったのです。
しかし、次の裁判が開かれることはありませんでした。冒頭でポールが皆に「知る必要がある」といった通り、養護施設を飛び出したマルコは、三日三晩街をさまよい歩き、帰らぬ人となってしまったのです。
ボーカリストとしてステージに立つルディは、全身黒に身を包んでいます。魂を込めて歌う『I Shall be Released』には、怒りと鎮魂が込められていました。
雄弁なルディ、その光
ポール役の岡本圭人が東山さんを「光という感じ」と評していたわけですが、アイドル東山紀之は気付けば周囲を明るくしている、静かな月の光です。
対照的にルディはギラギラと自ら発光する太陽そのもの。動くエネルギー体です。この差について東山さん本人は「(ルディには)明るく楽しい、僕の中にはない表現がたくさんある」と仰っていて。確かにそうなんですが、ルディという役は確かに役者東山紀之が生み出したものでもあって。そこがすごく面白くって楽しい。
そんなルディが開店前のショーパブでピアノに合わせてひとり悲しく歌うシーンでは、劇中ほぼ全編でポジティブな印象の彼が、珍しくとてもナイーブで内向的な面を見せています。正直なルディは、傷つく時も全力で、驚くほどに雄弁。
東山さん本人は弁がそれほど多い質ではないので(人の注目を集めていてもいつまでも平気で無言のまましらっとしていられるのがチャームのアイドル。少年隊のコンサートのMCで一言も喋らなかったエピソードなんて、あまりにらしくて想像するとにこにこしてしまう)、いつだって演じている時のほうが雄弁ですが、にしてもこんな顔はここでしか見られません。
ふたりのポール
2020年の初演で谷原章介さんが演じたポールは、疲れたサラリーマンでした。その気疲れっぷりはクローゼットゲイのしんどさが良くわかる表現で、とても好ましい。出逢った夜にルディの部屋に押し掛けたくせに、自分のことを聞かれたらとっさに嘘をついてしまうところなんて特に、理想のヒーローではない、等身大の市井のひとなのだなと感じられて。でっかいなりでおどおどしているので、ルディに「とんだクラーク・ケントだわ」と言われてしまう。そんなポールが勇気を出してルディを口説いてふりまわされまくって、どんどん変わっていって肝心なところで甲斐性をちゃんと見せる。それはルディも惚れなおしますよ。一種のやれやれ系主人公ですね。
初演ではベッドでのポールからのキスも、ほわっと胸が温かくなるリリカルさなのが嬉しくって。ああポールがルディに捧げる愛ってすっごくすっごくきれいなんだなと思えて、あのとき感じたときめきを3年経った今も胸に抱いています。
そんな谷原ポールがルディと本当に相性ぴったりだったので、再演キャストが発表された時に「東山ルディのポールは谷原さんじゃなきゃヤダヤダo(><;)(;><)o」と私の中のCP厨が暴れていました。
岡本圭人さんのポールは、パワフルなルディと対等に付き合える気力体力共に充実した前途ある青年です。
大胆に誘ったくせにルディに嘘をついてしまう谷原ポールの卑近さが私はとても好きでしたが、観終わってみると圭人さんのポールのひたむきな情熱が心に残って、いいなって思いました。
谷原ポールがルディに向ける愛は包容力で、圭人ポールが向けるのは恋人の情熱。
マルコについて
トリプルキャストのうち、千秋楽のマルコ役は丹下開登さん。
舞台のムードメーカーで、8回ほど続いたカーテンコールで泣いたり笑ったり、「もっともっと」とでもいうようにジェスチャーして観客を盛り上げたりと大活躍でした。
すごく楽しそうで、動いている姿に自然と笑みがこぼれる。大役お疲れ様でした。
マルコの母親、マリアンナについて
マルコの母親であるマリアンナ(まりゑ)はルディと鏡合わせの存在です。どちらもイタリアにルーツを持つ移民。ルディはオプティミスト、アンナはペシミスト。ルディは泣いても翌朝には振り切って前を向くけれど、アンナは去ったものをいつまでも見つめ続けている。
本当にそれだけの違い。だから家族に置いていかれひとりぼっちになったルディは、アンナになったかもしれないくて。ルディってアパートの隣人だったマリアンナにはあんなに悪態をついているのに、留置所で面会した時には穏やかな慈愛に満ちた目でマリアンナと対峙しているんですよね。
『I Shall Be Released』で謳われる「自由」とは
ルディが歌うラストソングは、ボブ・ディランです。
この場面、ルディはマルコへの鎮魂と怒りを込めて歌っています。
怒りは社会に向けられています。理不尽・不公平・不平等……それを平然と看過し、虐げていることに気付きもしない人々へ。
解放されるのはマルコとポールのために封印された本当のルディであり(「人が変わったように」というポールのナレーションがありましたね)、我々でもあります。
ここで、観客の話をしましょう。
舞台『チョコレートドーナツ』において、われわれ観客の感情移入先は誰でしょう?
主人公のルディはヒーローでヒロインです。皆ができないことをするから憧れなので、感情移入先はルディ以外の登場人物になります。
初演なら、ルディの相手役であり語り手でもあるポールが観客の視点を代弁していると言えるでしょう。私は私の代弁者として谷原ポールが大好きです。
ルディとポールの監護権請求を棄却する、血のにじむような判決を下したマイヤーソン判事。自らを「モンスター」と呼びルディに愛憎をぶつけるショーパプの踊り子・キャリー(穴沢裕介)こそが現実のマイノリティの代弁者かもしれません。
社会のホモフォビアによって枷をつけられているのはルディたちだけではないのです。
マルコの永久的看護権を請求した裁判の控訴において対したランバート弁護士。
このランバート、世間のホモフォビアを知りすぎるほど知り抜いた上で利用する、イタリアブランドの三つ揃いに身を包んでいるような伊達男です。
初演の堀部圭亮版は線が細く櫛目通ったタイプ、再演の浪岡一喜版は手入れされた髭を蓄えた漢らしいタイプ。どちらも共通しているのは、ランバート役の役者はルディが勤めるショーパブの常連も演じていること。泥酔して衣装を吐瀉物まみれにした、帽子で顔が見えない客ですね。
客に衣装をダメにされて悲鳴をあげる踊り子に、オーナーのパパことラウル・ベニーニは言います「泥酔していても、大切な常連さんなんだから」
素面ではゲイのためショーパプに訪れることができないけれど通わずにはいられない、世間のホモフォビアを内面化してしまった彼。
ルディとポールとマルコの仲を決定的に引き裂いたランバートさえ、苦しんでいるクローゼットゲイな可能性がある。
彼にも、ポールのように変わることのできる道があるかもしれない。
『I shall Be Released』は世間の偏見に苦しめられているすべての人々の魂の解放を歌っているのだと思います。
『チョコレートドーナツ』の時代背景
1978年、アメリカ合衆国史上初のオープンリー・ゲイの公職者であるカリフォルニア州サンフランシスコ市市議会議員ハーヴェイ・ミルクがこの世を去りました。ハーヴェイは暗殺、ゲイへのヘイトクライムの犠牲になりました。
『チョコレート・ドーナツ』はその翌年に舞台が設定されています。
ルディのラストパフォーマンスには、プライドのスピリットがあります。
『I Shall Be Released』の解放とは、ゲイ解放運動、つまりマイノリティの人権回復運動です。
当然人種差別も射程範囲。
ルディはイタリア系移民、同僚であるキャリーはドイツ系移民(ファミリーネームはシュワルツネッガー)。
ルディの両親が彼を手放さなければならなかった背景には、移民の貧困があったのは想像に難くありません。
ルディは裁判で、公民権運動のリーダー的存在だったキング牧師の言葉を引用します。
ポールが依頼したロニー・ワシントン弁護士(矢野デイヴィット)がアフリカ系アメリカ人として黒人差別とゲイ差別を並列して語るように、すべての歴史は繋がっているのです。
「なんて救いがない話なんだ」
観劇後の喫茶店で「東山さんて実在したんだ」「脚が誰よりも真っ直ぐだった」と感想をこぼしたSの続く言葉がこれでした。
この作品、マルコはルディに会えないまま星になってしまう結末なんですよね。
私は結末を知った上で舞台に臨んでいるのでそこまで気にならなのですが、確かに救いがない。
おそらく、原作映画の脚本兼監督のトラヴィス・ファインは誠実であろうとした結果、こういう結末を選んだ(言い換えればこれしか選べなかった)のはないかと思っています。
1970年代後半にゲイカップルが家族になること、公に子どもを持つ過程をシミュレーションしたのが本作で。30年以上経過した現在でもルディとポールとマルコが望んだ形は、残念ながら「当たり前」ではありません。
映画公開当時の2012年のアメリカでは同性婚こそ認める州が増えてきていましたが、依然同性カップルが養子を迎えることを禁ずる州がある状況でした。
そうした理不尽でどうしようもない現実に生きる者として、たとえ創作であってもファインは嘘がつけなかったのではないかなと私は思っています。
終わりに
悔いのない一日にしよう。そう決めて挑んだ舞台で、達成できたと思います。最高の舞台、最高の千穐楽でした。
リンク
チョコレートドーナツ | PARCO STAGE -パルコステージ- 2020年初演公式HP
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